ガラパコス野郎

ズレた学生の日記

萩原朔太郎の世界

最近アフタヌーンという漫画雑誌に載っている月に吠えらんねえにハマった。

作品のイメージを元に擬人化された近代の詩人たちの不思議な日常という話なのだが

主人公の萩原朔太郎が気になって図書館で作品集を一冊借りてみた。

すごく良かった。

近代の作品なのに今と変わらない悩みが伝わってくる。

将来への不安、周囲との劣等感や軋轢

現実逃避、この重苦しい心情を優れた感受性と洞察力をもって巧みに描いている。

分かりやすいのだと天に怒るという短編がある。

これは始皇帝に不死の効能をもつ薬を探すように命じられた男の旅の話である。

男は強い理想探究心を持つが故に危険な旅に参加した。

そして旅の過程で日本にたどり着き そこで同じく薬を長年探していた主人公の師匠に日本はありもしない理想を求めず現実の良いところを見つけてのびのびと暮らしているのだと教えられだから主人公もいつまでも夢見がちでいるなと叱咤される。

主人公もひとまず納得してここで暮らすのだがこの後の独白にひどく共感した。

大まかに書くとどれだけ一緒に日本人と暮らしていても自分と他人には見えない膜があり絶対に自分は受け入れてもらえない。

気を許して喋るとなぜか敵対心を抱かれる。

日本人はのびのびと暮らしているのではなく能天気なだけで自分とは違う。

という内容である。

僕も勇気を出して色々とチャレンジしても上手くいかず同じ絶望を味わったので納得する。

もはや自分が変われば世界が変わるなんてバカみたいなこと考えられない。

どうにもならないシステムが自分を包んでいるのだ。

自己啓発本は今だに流行っているが

世の中どうにもならない事だってある。

だから現実を拒否して空想に浸っていくのだ。

天に怒るの主人公のように。

 

郷に入っては郷に従え

日本の有名なことわざです。

意味は自分のいる所のルールは守ろうねという意味です。

この言葉が最近よく胸に染みます。

なぜかというと、図書館で読んだ岩波出版の哲学トレーニングという本で言語ゲームという観念を知ったからです。

 

高校倫理の古典でまなぶ 哲学トレーニング 1――人間を理解する

高校倫理の古典でまなぶ 哲学トレーニング 1――人間を理解する

 

 

言語ゲームって倫理の教科書で見たことはあるけどよく分からないなと思っていたのでその、哲学トレーニングで何となく分かったのは嬉しかったです。

うまく説明するのは難しいのですけど、要するに「郷に入っては郷に従え」です。

詳しく書くと、言葉とは永遠不変の意味があるのではなくその時の状況で意味が変わり、それを使うコミュニケーションとはその都度ルールが変わるごっこ遊びのようだとウィトゲンシュタインは考えたそうです。

例えば、二人の子供がおままごとをしています。これは二人がおままごとをしたいから、そしておままごとのやり方が二人ともだいたい同じだから成り立っています。

これと同様にコミュニケーションも話す前から多くの前提の元に成り立っているというわけだそうです。

コミュニケーションがうまくいかないのは

向こうが将棋をしたいのに僕は駒でおはじきをしてしまう所でしょうか。

自分の事しか見えなくて他人の事をもう少し見ていればこうならないのかもしれません。

今までは、コミュニケーションがうまくいかないのは自分に合う人がいないだとか、センスがないとか感情論で誤魔化していましたが、こういう風に分かりやすく説明してくれる哲学があったおかげで何となく突破口が見えてきた気がしました。

今日のウンコ日和

カップ麺やカップ焼そばはとても安く食費の節約になりますが、大抵腹を壊します。

特にそれしか食べていないと下痢便確定です。

その癖、腹というのはワガママでウンコをモリモリ出した後腹が減る事があります。

何なんでしょうね。

人と馴染めない

会話がそもそも出来ないわけじゃない。

自分から話しかけられるし、話しかけられて反応もできる。

でも、どこか人とずれている。

会話をキャッチボールとするなら

相手が投げた球をとてつもない方向に投げてしまうのが俺だ。 

何か喋っても共感を得ることは少ない。

だから、昔はコミュニケーションが好きだったけど次第に嫌になっていた。

そして今はどうせ共感されないならと、サブカル趣味に走っている。

今後どうなるかはまったく分からない。

かなり非リア向けだったエヴァ旧劇

BSで去年の秋から再放送されていて興味本位で見て来たエヴァ

今までの謎が何となく分かった劇場版だった。

たった90分くらいでまとまるのかと思ったけど多分大体分かった。

でもあまりに残酷過ぎる。

あの使徒との戦いは人類をある意味滅ぼすためにやらされた事だったとは。

このためだけにたくさんの人が死んだ。

アスカも母の幻影を見て覚醒したにも関わらず

ゼーレに殺された。

(作中で一番悲惨な死に方だった)

人類補完計画と呼ばれるこの計画。

自我を持つから人類は争うという訳で自我を奪って一つの生命体にするという内容だ。

死ぬのと変わらないことだけど自己嫌悪してきた生存者たちは各々楽しい夢を見ながら受け入れた。(マヤさんがレズだったのは驚いた。 視聴者にはとことん夢を見させない)

劇場版では疲弊して何も出来なかったシンジはとうとう補完を受け入れる。

この描写が非常におぞましい。

とても辛い幼年時代だったようだ。

自分の解釈ではシンジはあまり男と関わらず女とばかり関わってきたのは自分を放置してきた父親に対する怒りや恐怖から男を避け女に依存していたかもしれない。

TV版の回想でもトウジやケンスケより圧倒的にミサトさん綾波・アスカが出てくることが多かった。

でも依存してきた女の子たちのシンジに対する隠れた思いを補完された故に知ってしまう。

ミサトさんは頼れるお姉さんだけど実はかなり自分勝手。

アスカはシンジの事が大嫌いだった?

ミサトさんの家でのシーンは本当のことか分からないけど首を絞めるなんて当時のシンジには出来ないだろうから補完後の世界の話だろう)

シンジもアスカなんて別に好きじゃなかった。

でも恋愛すれば冴えない人生が変わるとでも思っていたのか好きなフリをしていたのかもしれない。

アスカも同様かな?

それでシンジは首を絞めた。

ここでご機嫌なミュージック。

そして実写パート。 若造としては90年代の日本の風景が見れて楽しい。でも座席に座っているエヴァファンを写しながら現実がどうたらこうたら講釈を垂れるのはさすがにヒドい。

そりゃ無いでしょ。監督のインタビュー本読んだら自分の意見を押し付けるファンが鬱陶しかったとは言っていたけど。

監督が伝えたかったのはエヴァにハマって自分を慰めてないで現実を生きろという事なんだろう。

だから撤退的に世界を滅茶苦茶にしてファンを失望させようとしたのかな。

とにかく、シンジはアスカに対してお前なんか別に女として好きじゃないと意志を示してまた新しく人生をやり直そうと補完を拒絶する。

シンジと初号機は使徒との戦いで一体化して

神同然になっていたのであっけなく補完世界は崩壊した。

さようなら綾波。 (モザイクほぼ無しだったけどなぜか綾波の欠損にはモザイク 女子中学生のおっぱいは許されたのに)

最後、アダムとイヴかの様にシンジとアスカが並んで横たわる。

シンジは現実でもアスカに対する怒り?を示して反応を貰うことにした。

アスカもその心情を補完世界で知っていたのか

「気持ち悪い」と嘲る。

よくこの壮大な話がまとまったと思うけど非常に人に薦められない作品だと思う。

作中歌だけは受け入れられそう。

他人が怖い。自分すら愛せないという人にはこの補完世界は魅力的なんだと思う。

補完世界は徹夜しながらネット見ている感覚に近いのかな。